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ことばの両利き舎について

自己紹介

こんにちは。こちらのサイトに来てくださってありがとうございます。

【ことばの両利き舎】という日英バイリンガルを目指す中学・高校・大学生向けの英語・英会話スクールです。ここでは私の今までの経歴をご紹介させて頂きます。

ここまでの経歴

憧れと現実逃避

Photo by Samuel Branch on Unsplash

わたしは、中学生のときに外国に憧れを抱いて、英語に興味を持ち始めました。当時バスケが大好きで、NBAが格好良くて「アメリカ行きたい!」と思うようになりました。

しかし高校での「暗記」重視、「和訳」重視の授業に興味を持てず挫折。授業に全くついていけずに高校の成績は(英語に限らず)かなり低迷しました。 

高校卒業後に1年ほど、ビルの清掃員としてアルバイトしながら留学を準備。当時はインターネットがまだ無く、足でアメリカ大使館やら図書館やら留学相談セミナーなどに行って情報を収集していました。

実力はないのに意気込みだけは大きく、「絶対に英語ができるようになりたい」と決意して、なるべく日本人のいない田舎町に留学を検討。金銭的な事情もあって、「学費」「生活費」「物価」の安い、アメリカ中西部のコロラド州ラフンタに留学しました。

実力通りのみじめな現実

当然ですが、学校の授業も、教科書も、寮生活も全部英語。でも、英語力はほぼゼロ。しかも超内向的な性格で日本にいたときから他者とのコミュニケーションは苦手だし、自己主張もできないし、友達もいない。最初の3か月はこの「無力な自分」という厳しい現実を突きつけられました。ホームシックもあり、泣きべそかきながら、みじめで絶望の毎日を送ります。

ところが追い込まれたことで逆に「開き直る」ことができて、3か月ほど過ぎたあたりから手当たり次第に周りの人に話しかけ始めました。下手すぎて笑われることも、露骨に嫌な顔をされることも少なくありませんでした。

でも、自分の決死の覚悟が通じたのか、耳を傾けてくれる人が出てくる、「正しくはこう言うんだよ」と教えてくれる人も出てくる、少しずつ友達もできてくる。1年過ぎるころには日常生活を送るのに困らないようになっていました。

結局コロラド州ラフンタとミネソタ州インターナショナルフォールズ、それからミネソタ州セントクラウドに、トータル4年半滞在して無事大学を卒業します。

前半2年(ラフンタとインターナショナルフォールズ)は日本人が周りにいない環境だったので、その時期に、脳に「英語」回路ができたと感じました。

後半2年半(セントクラウド)は日本人や他国の留学生もたくさんいる中規模大学にいたので、日本人と接する機会も増えました。なので、キャンパス内のアルバイトをして、現地のアメリカ人や他国の留学生と触れる機会をたくさん持つようにしました。

「教える」ことは「教わる」こと

Photo by Ivan Aleksic on Unsplash

大学にいたときには就職活動を一切せずに、卒業後に帰国。しばらく実家で充電期間をとっていたら、なんとなく「英会話スクールの講師になりたい」と思うようになります。そこで、自宅近くで皿洗いのアルバイトをしながら、英語系の資格試験を取得して、英会話スクールに応募。

そして、5,6社不採用になった後に、なんとか大手の英会話スクールで講師になりました。しかし「自分」が話せることと、他人が理解できるようになるために「教える」こととは全く違うことに初めて気づかされ、自信崩壊。

現地でなんとか生き延びて英語を身につけて「天狗」になっていた鼻っ柱をへし折られました。ここでもう一度初心に戻って、ゼロから「講師」として「学習者に共感し、理解する」ことを学びなおしました。

気持ちを入れ替えたことで、生徒さんの気持ちにも共感できるようになり、レッスンがとても楽しくできるように変化。生徒さんの「嬉しい、楽しい!」が自分にとっての喜びになる経験ができました。

またも憧れだけで実力足りず

その後、学習塾で小中高生向けの英語の講師や、中国語教室事務員など、語学教育分野で働きます。

20代後半で、なぜか国際企業でバリバリ働く外人ビジネスパーソンに憧れるようになります。そこで心機一転「独学で経済・会計を学びなおそう」と決意して、中国語教室の事務員と、病院の清掃員の仕事をかけもちしながら、空いている時間で米国公認会計士の資格の勉強。

資格取得後に、それまで身につけた英語力のおかげもあり、四大会計事務所系の国際税務関係の部署に転職できました。

そこでは外国人の同僚や上司の方が7~8名ほどいて、憧れ通りの「国際的」な職場でした。

私の仕事は、財務分析や翻訳などでしたが、ここでもまた壁にぶつかります。「英語ができる」ことと、「仕事」ができることは違うという、厳しい現実の壁に、またも鼻っ柱をへし折られました。

アメリカ人会計士とかイギリス人会計士とかニュージーランド人弁護士とか、いわゆる専門職(プロフェッショナル)のボスたちとお仕事をさせてもらって、いろんな意味で自分の幼稚なレベルに気づかされます。

挫折「慣れ」していた私は、また初心に戻り、なりふり構わずになんとか外国人ボスに食らいついて仕事をもらいにいきます。ダメなところを指摘されては「次はうまくやろう」と格闘を繰り返しました。

2~3年たった頃には専門文書の読解力や、分析力や文章作成力もかなり上がったと感じたし、部内ミーティングで専門的な事について外国人ともディスカッションできるようになりました。

焦りと不安に駆られて

会計事務所で仕事をしながら、33歳~35歳にかけて社会人用の夜間大学院に通っていました。簿記会計の次は、経済・金融も学びたいという動機からです。

じっとしているのが不安で、何かに駆り立てられるようでした。幼いころから、自分はダメなやつという劣等感があり、常に「もっと頑張らないと・・・」という不安があったように思います。それで衝動的とも思えるな行動を繰り返していました。

大学院に通う際も、仕事は十分「激務」なのに、空き時間で大学院に通うという無謀なことを数年続けてしまい、結果、心や自律神経系の不調が常態化してしまいました。

リセットも悪くない

長年の無理がたたって、2012年に36歳で体調不良になり、仕事を続けられなくなり、退職して地元の新潟に戻ってきました。うつ病で半寝たきり生活を送りました。

この時は、「英語」とか「仕事」とかのレベルでなく、人生レベルで暗闇期をすごしました。しかし、この体験をしたことで、それまでの生き方を大きく反省しました。周りの人の支えを、ありがたいと自然に思えるようになりました。自分自身の見たくない部分を見ることができたと思っています。

幸い、4年を過ぎたころに取り入れた治療が効いて、回復していきました。トータル6年の療養生活から復活して、2018年に社会復帰。友人から紹介してもらったパートの介護職員の仕事をしました。年配の方々に接しながら徐々に社会生活を再開していきました。

そして、2019年に新潟市の英会話教室で英語を教える仕事を始めました。ここで小中高生や大人の方を対象とした英文法を担当。「英語」を教えることへの喜びや熱意が再燃して、徐々に自分なりのやり方で英語を教えたいと思うようになりました。

そして、2021年4月に講師として独立し「ことばの両利き舎」を始めました。

今までの「挫折と格闘」そして「よみがえり」の経験を生かして、バイリンガルを目指す中学・高校・大学生向けの英語学習のお手伝いをしています。私のこれまでの経験が、英語をマスターしたい人達に、何らかの形でお役に立つと嬉しいです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


記事執筆者:上田卓史

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