Categories
ヒストリー

英語オンリーのアメリカ生活

初めて海外で生活するときに選んだ場所は、アメリカ。

small townを選んだ理由の一つに、「日本人がいない」ということ。

日本人がいなければ日本語を使うことはできないし、アメリカ人と話さざるを得ない。そうすれば英語ができるようになるだろう、と考えてのことです。

英語オンリーのアメリカ生活

本気度100パーセント

しかし面白いもので、わたしと同じことを考えていた日本人がいた!しかもわたしと同い年。

彼はS君といって埼玉から来ていた。あんな小さな小さな町に、同じ時期に入学する同い年の人間がいたなんて...

S君はとても個性的でした。やっぱりそんな小さな町に一人でやってくるだけのことはある。

でも彼が一番すごかったのは、わたしと話すときですら、英語だけで話してきたこと。

同じ日本人同士なんだから日本語で話すと思いきや、「それではアメリカまで来た意味がない」と言って英語で話していた。

もちろんわたしもがんばって英語で返しました。

さらには「せっかくアメリカに来たのだから、アメリカ人と交流したい」と言って、日本人のわたしとは行動せずに、現地のアメリカ人にどんどん話しかけて、そして仲良くなっていったのです。

わたしも、アメリカに来る前は、S君と同じように意気込んでいました。だからこそ、ラフンタのようなsmall townを選んだ。

しかし、実際に生活してみると、何も喋れない、だれとも仲良くなれない、ホームシックに自信喪失。

そんなとき、やっと日本人に出会って「ほっ」としたのもつかの間、「せっかくアメリカに来たので、日本人ではなくアメリカ人と仲良くしたい」と言われてしまった...

S君は別に冷たい人間ではありませんでした。いや、むしろ立派でした。学生寮のアメリカ人と次から次へと仲良くなっていって、最初の1週間でものすごく人気者になっていました。

それなら俺だって

面と向かって「日本人とはつるみたくない」と言われたのだから、こっちだって面子があります。「俺だってそのつもりで来たんだ。俺もアメリカ人と話すさ!」と気合を入れ直しました。

しかし意気込んではみたものの、そんなに上手くいかない。自分の実力がモロに出ちゃう。さらに、会う人会う人にS君と比較されるような事を言われてしまう。その大学(Otero Junior College という2年生の短大 https://www.ojc.edu/ )は生徒数1,000人ほどで、学生寮には300人くらいしか住んでいません。なので寮内ではみんな顔見知り。

「お前はSを知っているか?Sは英語を話せるぞ。あいつはcoolだぞ !」

「Sはスゴイやつだ。お前はSに英語を教えてもらった方がいい」

なんてことを、いろんな人から言われる。メンツはズタズタ(笑)でしたね。

S君はアメリカに来る前に、当時東京にあったテンプル大学の東京分校に通っていたので、わたしより英会話は格段に上手でした。アメリカ人慣れもしていました。性格も明るく元気で、アメリカ人のテンションにあっていたようです。わたしは正反対で、性格もおとなしいし、英会話はへたくそだったし、聞いても理解出来できないし、気が小さくておどおどしてて、人に話しかけられないし...

頑張って話そうとするけど、通じない。悔しい。死ぬほど悔しかったです。へたくそな英語を馬鹿にされることもありました。

結局、精神的に限界に達して、助けを求めてわたしからS君に近づいていきました。誰とも仲良くなれずに、一人で気分のドン底(笑)。ワラをもつかむ気持ちで寮の彼の部屋に行きました。「ちょっと日本語で話していいかな?」

戦友に感謝 

S君は快くわたしを部屋に入れてくれました。たまりにたまったモヤモヤ、泣き言、グチを聞いてもらいました。日本語で遠慮なく。「捨てる神あれば拾う神あり、だと思うよ。」と助言してくれました。「頑張っていれば必ずだれかが見ていてくれるはず。だから人からどう思われるかは気にしないで、どんどん行動してみるべきだと思う」と言ってました。

彼と話したことで心が軽くなりましたね。彼自身がわたしにとっての「拾う神」でした。

それからは、学内や寮内でS君と会うと、彼と話すようになりました、もちろん英語で。いきなりアメリカ人と話すより、彼と話すほうが気が楽だったし、少しずつ英語にも慣れていけました。彼も初めての海外生活、初めてのアメリカで、毎日いろいろ戦いながら乗り越えていることを、あとから知りました。もちろんS君もわたしも、いつも日本同士だけでいるのは嫌だったから、現地のアメリカ人とも仲良くしていました。「絶対話せるようになってやる!」とがむしゃらでしたね。まあ20歳だし、若さというパワーがそれを可能にしてくれたんだと思います。

無謀でも愚直でも、続ければ芽が出る

一年くらい経ってから、彼と同じくらい英語が分かるように、そして、話せるようになっていました‼️ 

わたしが、無謀なアメリカ留学をなんとかかんとか乗り越えることが出来たのも、英語が分かるようになったのも、当時S君が同じ大学にいて、助けてくれたからです。そして、数年後には4年制の大学を無事卒業できたし、日本に帰国後も英会話スクールの講師や、国際会計事務所で外国人と一緒にお仕事をすることができました。それも、今思い返せば、一番初めのコロラド州ラフンタで頑張れたからです。そして頑張れたのはS君がいたからです。

S君には心から感謝しています。ありがとう!!

その後、それぞれ別の四年制大学へと編入していきました。それからS君とは、もう20年近く連絡を取っていませんが、きっとどこかで活躍していると思います。そう願っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です